アンビバレント

 

先日、大学の講義でSとMは対義的なものではなく、SはMの性質を併せ持ち、MはSの性質を併せ持つ、と習った。SはMの求めるものを理解できるからこそSたりえて、逆もまた然りということであり、両者が入れ替わることはSM界隈ではよくあることなのだそうだ。

 

どんな講義だよ、と思われるかもしれないが、私はこれを聞いて、やはり人間は両義的な面を併せ持つアンビバレントな生き物であると確信したのだった。

 

「お腹がいっぱいだけど甘いものが食べたい」「忙しいって分かってるけどやりたくなくてやらない」

 

人間は、常に自己の欲望と理性的に行わなければならないことに挟まれて生活している。

 

欲望のままに動いたら、社会的な死が訪れてしまう…!というピンチが多い人間社会。自分の本当にやりたいことはなかなかできないですよね。

 

私も本当ならば一日中動物園で、ゴリラの檻の前で彼らを眺め、一日の終わりにはすこしコミュニケーションが取れるようになったりしたいな…と思いながら生活している。しかしそれはできない。私のような人間がこんな夏の暑い日、家族連れの多く訪れる動物園で開園から閉園までゴリラの檻の前に座っていて、時々ゴリラに呼びかけるような行動をとっていたとしたら、怖すぎるからだ。

動物園で、「キリンさ〜ん!ゴリラさ〜ん!!!」と大声で叫ぶのが許されるのは小学生までなのだ。

 

私は、本当ならばゴリラに話しかけてじっくり時間をかけてコミュニケーションを取りたいところを、自分の社会的な面子を保つために、ゴリラの檻の前に来ても、

「わ〜!!ゴリラだ〜!私ゴリラ好きなんだよね〜…あ、寝てる笑 かわい〜〜」

と、リアクションを最低限に抑えている。

 

「ウォ〜〜〜〜ッッッゴリラ!!!!!でけえ〜!!!!かっけえ〜〜!!!!ウホウホウホ!!!!あっウホウホってのはゴリラへのステレオタイプかな!??実際はどうやって鳴くんだろう聞いたことないな!!!?ちょっと鳴いてみてくれませんか!!!!!!?」

 

と叫び出したいところを抑えているのである。

 

自分を律せよ。

自分の手綱を持つのだ…………………

 

社会的な自己、本当の自己、これらを併せ持ちながらうまいこと人間社会の綱を渡っていく………

これこそが人間に求められている、「理性」であり、それが故に「理性」の無い人間は、社会で浮いてしまうのかもしれない。

 

でも、社会から自分への役割期待を逃れた先にこそある、真の自分をさらけ出す悦びっていうのもあるかもしれないですよね?それがSとMの交代に表れているんですよね?ゴリラに話しかけても良いってことですよね?仮面(ペルソナ)を外してもいいですか?

 

ね、ゴフマン先生?そうなんでしょ???いいでしょ?

 

というわけで、今週末は動物園に行きたいと思います。

ゴリラの檻の前で見かけても、無視してください。

さようなら。

 

アーヴィング・ゴッフマン - Wikipedia